世田谷区玉川地区とプラス付近の名所紹介
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明治初期頃、世田谷区の人口密度は1平方キロメートルあたり約290人と、今では想像できないほどの緩やかな密度でした。そして、耕地規模の小さい農家が多かったそうで、結果宅地化しやすい要素があった。
そして、豊田正治氏が提唱した「玉川全円耕地整理事業」。また、これより先駆けて、渋沢親子による「田園調布構想」が起きる。 ここまでは、このBlogでも紹介しましたが、その他には奥沢(自由が丘の隣)に「海軍村」ができる。地主だった原氏が全円耕地整理事業が起きる前年に独力で区画整理を行い、海軍士官達に借地として貸し与えた。当時の土地賃借契約証書によると、賃借料は坪単価8銭だそうです。横須賀の軍港と海軍省の中間であった為に、昭和に入ると30戸も集まりだしたそうです。主に海軍上級将校が住んでいた。また、この近くにはドイツ村というのもあったそうです。 他にも、成城学園などもありますが、面白い所では桜新町は東京信託株式会社が荏原郡駒沢村と玉川村にまたがる7万1千坪をイギリスの例に見習って開発し、新町と命名したそうです。 キャッチフレーズは「東京の軽井沢」だそうです。ネーミングからして、まだまだ緑深い街だったのでしょうね。 また、世田谷に始めて電気がともったのは1908年。 当時の玉電の余った電力を世田ヶ谷村、玉川村の家庭に振り向けた。当時、多くの家庭用電気器具が発明され始め、先の整理事業には多くの電化住宅が生まれてくる。そして、関東大震災の後に「第一次電化ブーム」が起こる。 結果、「耕地整理事業」「電化住宅」「玉電からの電力供給」「第一次電化ブーム」「関東大震災」と複合的な要因により世田谷区の人口が増え始めてきたようである。そして、次の人口増加は、やはり戦後の戦災復興のため、応急住宅、住宅金融国庫などの国の資金に援助され住宅が多く出来上がってきた。
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