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世田谷区玉川地区とプラス付近の名所紹介
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![]() 等々力駅から北に約一キロを歩く。 その行程の大半が坂道で、運動不足を痛感しながら深沢の都立園芸高校(リンク先:都立園芸高校)を目指しました。この園芸高校が兎々呂城(とどろじょう)が在ったと言われている所です。 城主は南条右京亮重長(なんじょう うきょうのすけ しげなが)公と言います。南条家は小田原北条家の家臣で、国府台合戦(リンク先:Wikipedia)において戦功を上げた事から、この領地を与えられたと言われております。小田原衆にも南条家と言うのがあるようですが、重長公は伊豆衆のようです。1559年の北条分限帳によると、騎馬50騎、足軽200人を賜わる侍大将だったそうです。この兎々呂城の時には、どのぐらいの家臣団を率いていたのでしょうか。 世田谷の中世城郭の中で、新世田谷区史を参照し、このように述べています。 「南條右京亮重長はよほどの戦上手であったとみえて、1574年下総国関宿城の梁田氏を攻め、1580年北条氏直と武田勝頼の駿河国浮島ヶ原戦、1582年滝川一益との武州賀美郡金窪戦にそれぞれ感状を授けられているほか、1590年豊臣秀吉により小田原城を包囲されたときは旗奉行兼侍大将として騎馬侍50人、従者200人を率いて、城方の第一線である小嶺山(秀吉本陣近く)の持口)を守備している」 武勇に優れた武将のようです。 ところで、深沢は吉良家の領地であるはずなのに、なぜ小田原北条家の家臣が領地を拝領できたのだろうか?この辺りも一度吉良家について調べ書かなければならないように感じます。推測でお話しますと、吉良家7代目当主の頼康公の時代の話し。 小田原城で政務を執っている頼康公のもとに悲報が告げられる。それは子を宿した常盤姫が駒留八幡神社の傍らで殺害(または自害)されたという事です。頼康公には、成人したのか不明ですが実子は居たようです。しかし、常盤姫に子を宿した事は、この戦国の世では多ければ多いほどによい。特に、名門吉良家となれば。だが、母子共に殺害されてしまいました。ここで吉良家の血筋は絶えたようです。(ここまでは史実なのか分からない、以降は史実) これにより北条家より嫁いだ崎姫(さき姫)が家内を預かる事になる。この崎姫は北条二代目氏綱公の娘で、もともとは今川貞基公と結婚していたが離縁させられ頼康公に嫁いだ。そして、その今川貞基公との間に出来た氏朝を頼康公の嗣子として迎えて、1560年に吉良家の家督を譲った。血は濃くなり、三代目北条家の当主氏康の娘鶴松院も氏朝公に嫁ぐことになる。 ![]() なぜ、ここまでするのか。吉良家と北条家の力関係は隔絶的だが、名門吉良家(庶流ではあるが、本流は足利将軍家において血筋が耐えれば、吉良家が将軍家となり、それが駄目なら今川家が継ぐ)との門閥を作れば、関東の地侍を慰撫するには効果的だと考えたのではないでしょうか。関東管領は、征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関の鎌倉公方の補佐官でしかない。しかし、その征夷大将軍足利家の血を引く吉良家が北条家と繋がりが強いとなると、話しも違うとなるのではと考えます。 話しは戻します。このように非武力懐柔により吉良家領地も北条家の直轄となった。 その為、南条重長公が問題なく、この領地を与えれる事が可能となったのではないでしょうか。 国府台の合戦は第一次(1538年)と、第二次(1563年・1564年)がありますが、南条家が功績を挙げたのは第二次のようです。そして、1564年頃に、深沢の園芸高校の敷地に城を築いたと推測されています。そして、小田原の役(リンク先:Wikipedia)の1590年に小田原城が陥落すると、南条重長公は城を出て土着帰農した。名を、南条から小谷岡、谷岡などに変えたそうです。 ![]() どのような城だったのか? イメージするのは石垣に白壁と思うかもしれませんが、掻上の城と言われています。 掻上の城とは、地面に穴を掘って堀として、その掘った土で土塁を作るお城です。どのくらいの規模なのか?現在の園芸高校の敷地、そのままなのかは分かりません。 許可を頂き園芸高校の中を拝見し、周辺の地理を伺いましたが、複雑な地形過ぎて、城を設けて、近隣に住民を住まわせても発展しづらいと感じます。その為、南条家も兵も養えないのではと思います。 私は、ここに築いたのは吉良家や奥沢城を含む大平家への睨みではないかと思っています。(とあるサイトでは吉良家に対してではないかと書かれていました)吉良家から等々力と小山(尾山台)を領地として拝領した大平家は、吉良家の重臣の1人と言われています。その大平家が居る奥沢城に隣接するように城を築いたのではないでしょうか。尚、1561年に頼康公に了解をもらい、大平家は北条家の家臣となる。上杉家、武田家の備えとして奥沢城を備えたと言います。ここで、吉良家と大平家は北条家の家臣という、立場上では対等になるのでしょうか。 尚、深沢の地名の由来を見ると、三代征夷大将軍の源実朝の家臣土岐左衛門公が深沢に住んで、深沢と名付けたようです。というと、この土岐左衛門公は、南条家が来た時にはどうなったのでしょうか? もう一つ、兎々呂城の片隅に在った満願寺を、現在の所に移転させたのが1549年と言われています。ということは、南条重長公が来る前からお城らしきがあったのかもしれない。それは土岐左衛門公が建てたものかもしれません。 等々力の地名の由来は、この「兎々呂城(とどろき)」(城をキと読む)もありますが、「土岐の城(ときのしろ)」という言葉からもあるそうです。または、等々力渓谷の滝が「轟く(とどろく)」所からという説もあります。しっくりするのは、兎々呂城なのだろうか?! ちなみに、兎々呂とはどういう意味なんでしょうか。 東京都教育委員会の遺跡データでは、玉川警察署のあたりを「深沢城跡」としております。 深沢城=兎々呂城なのでしょうか。尚、末裔は小谷岡城と言う。また、園芸高校の近くにおいて、口伝により昭和30年ごろに末裔が発掘をしたところ、地下1mの所に長さ約20m、幅1.2mの玉石を敷き詰めた道を見つけたそうです。玉石は拾い出して他の用途に利用したと言います。この延長線上を掘れば、その姿が分かるであろうが、もはや住宅地となっているので不可能でしょう。 【関連項目】 深沢神社 記事は無いですが、この神社は谷岡氏が勧請したそうです。 満願寺 もとは、兎々呂城内に在ったと言われています。 【参考資料】 厚木市役所 せたがやの民話 世田谷区教育委員会 風雲戦国史 戦国武将の家紋 【交通機関】 等々力駅から徒歩で約20分 東急大井町線 等々力駅 東急バスでも行けるようです。 その場合には、等々力駅から園芸高校前(渋28)だと思われます。 ▼面白かったら下の画像をクリックして評価してください!!▼ ![]()
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